思考の整理学~グライダー~ 外山滋比古

ーp10~

「学校の生徒はグライダーのようなもの。自力で飛び上がることはできない。それなのに卒業間近自力で飛べと卒業論文を書くことになる。これはグライダーとして成績が優秀な生徒ほど手こずるようだ。いわれた通りのことをするのは得意だが自分で考えてテーマを持てと言われるのは苦手である。」

 これを客観的に自己分析してみると、これは自分だなってことが一瞬でよくわかる。日常生活で何か解決しないといけない問題が発生した時、どうしたらいいかわからなくて、いろいろ詳しい父に聞いてしまう。そうすると、自分で考えてみろっと一蹴されてしまうことがほとんどだから。

 日本の教育はこうなる人材を作るのに適したものだといわれるけど、実際アメリカの教育はどうなんだろう…。日本人の学生は論理的に考えるのが苦手だけど、計算が早い。アメリカ人は計算は遅いけど、論理的に考え、それを主張できると聞いたことがある。アメリカの教育はグライダーを育成する教育じゃないのかな?

 自由にテーマを見つけるのに苦戦するというのは卒論だけではないないんじゃないかなと思っていて、それは社会に出たときに体感するんだろうなっていうこと。前述した父親は俗にいう、”仕事ができる人間”で、地位が上の人にもそれはおかしいだろうと言える鋼の精神の持ち主だけど、会社の話で耳タコなのが、優秀な大学卒業者ほど仕事はできないという。これは本にも似たようなことが載っていて、

「グライダー(人力で飛べない)能力が圧倒的で、飛行機(人力で飛べる)能力はまるでなし、という”優秀な”人間がたくさんいるのも確かで、しかも、そういう人も”翔べる”という評価を受けているのである。」

という部分。なんとなくいい大学に行っている彼らのレッテルは、いい大学を出ているから仕事ができるという変な解釈のもとにあるんだろう。昭和初期の時代では大学に行く人はエリートで、そのエリートは出世すること間違いなしということだそうだからその認識を変えていくのは難しいと思う。これを踏まえていくと現代で欲しいという言われる人材というのはグライダーじゃなくて、飛行機を求めているんだなっていうことが嫌というほどわかってくる。

 行き過ぎだとは思うけど、勉強の目的をはき違えているのかなとすら思ってくる。というのも、学校の勉強で特にそれが顕著がなのが英語。小学校からずーっと苦手な人が続出するほど生きている中でついてくる科目なのに何故かみんな一向に英語をしゃべれない。

Q. じゃあなんのためにやっているのか。

A. 大学受験が受かるため。

いい大学に行くため、とにかく大学を出るために勉強する。そこからおかしいんじゃないんだろうか。大学に行って何か極めたいとか、大学の勉強じゃなくて大学在学中にできること全部やっておきたい。その知識獲得のために勉強するというのが本来人間が持つべき勉強の目的なのでは?と思ったり。実際に社会人で勉強してる人って、何か自分の夢だったりを目的としてる人多いな。そう考えると小中高の学校が大学受験専門の機関ってことになりそうだけど…。